2004年06月10日 (木)

旅立ちの日

 出発の朝は、ラフカイの「ピーッ、ピーッ」という甲高い鳴き声で目が覚めた。
前々日の晩から、成田空港に近い千葉の田中家にお世話になっていた。今ではすっかり義父のパソコン部屋と化した6畳間で、荷物に囲まれ辛うじて敷き詰めた布団から、ぼんやりした頭のまま抜け出した。襖の扉をそっと開くと、ラフカイが行儀良く座って、私を見上げている。
「とうした?ラフカイ」
尋ねると、ラフカイは隙間にするりと体を滑り込ませて、枕元に狭いスペースを見つけ、くるりと一回りして丸くなってしまった。
落ち着いたラフカイの様子を見届けて、私は再び眠りについた。
 次に起き出した時には、日はすっかり高くなっていた。
ラフカイがいるときの日課で、義父は朝早々と散歩に出かけてくれたらしい。家の近くを流れる川沿いの遊歩道を行くと、浜辺に出る。海まで片道20分程の、ほど良い散歩コースである。
「今朝さ、ラフカイと海まで行くつもりだったのに、半分も行かないうちに、ラフカイが突然引き返しちゃって。『ラフカーイ、海までもうすぐだぞー。行くぞー』っていくら誘っても全然聞かずにさっさと家に戻ってきたんだよ」
 ラフカイのピイピイは帰宅後のことである。
ラフカイがこんな風に鳴くのは、寂しい時か、何かを要求している時なのだ。
「ラフカイ、帰ったら千恵さんがいなくなってると思って不安になったのかもね」
茶の間のテーブルに座り、「ラフカイ」と呼んでみると、ラフカイは私の側までやってきて、自分の頭を私の太股に預けて、ごろりと横たわった。
「ラフカイってば、私が行くこと分かるのかな?自分が置いていかれることにも気づいてるのかな。ねえ、ラフカイ、分かってる?」
私の問いかけには答えず、ラフカイは安心しきった様子で、私の手に撫でられていた。
ラフカイは何を思っているのだろう。あの巨大なザックから旅立ちの気配に感づいているのか、人間たちのあわただしいやり取りにいつもと違う空気を読みとるのか。普段よりも少し甘えん坊のラフカイが愛おしく思えた。
 エア・カナダ、バンクーバー行きの便は夕方発だったため、のんびりとお昼ご飯を済ませた後、ラフカイを少しの間でも自由にさせてやるのに海へ行った。灰色に沈んだ雲の下、ラフカイは砂浜を全力で走り回っている。
目の前に寄せる波をみていたら、海はつながってるんだなぁと、ふと当たり前のことを思う。
「もし、寂しくなったらさ、うちの前の醍醐川にカヌーを下ろして下れば?浅川に入って、多摩川につながって、太平洋に出られるよ。それで海を横断したらカナダだ!近いね。それで遊びに来れるじゃん」
私の言葉に、田中さんは「イヤだっ」と一言言って笑った。
 これから数ヶ月暮らすための、生活道具一式を詰め込んだバックパックに、見送りのラフカイを乗せたジムニーで成田空港に向かった。
空港の駐車場で、
「行ってくるね。田中さんの面倒をみるんだよ」
きょとんとしたままのラフカイに挨拶をして別れた。
 ラフカイ連れの旅ならば、出発時刻3時間以上前に、動物検疫所で健康診断を受けさせて、書類に判子をもらいと大わらわなのに比べると、一人の出発はあっけない程身軽だ。
チェックイン後にたっぷりと残った時間で、私たちは甘いものを頬張った。
 搭乗時間が近づき、出国ゲートで、「ほんじゃ、行ってくるね。原稿がんばって」「無茶するなよ」と言葉を交わしながらも、田中さんに見送られてひとりで旅立つということが何だかまだ不思議な気がしていた。この数年、田中さんとラフカイがいつも一緒だったから。機内持ち込みの荷物をX線に通してチェックを受けた後、振り向いてみると、ゲートの向こうにまだ姿が見えた。
もう一度、「行くね」とメッセージを送るため、私は目立つようにピョンピョンと飛び跳ねながら、大きく手を振った。
 「二人旅と一人旅のどっちがいい?」と聞く友人がいた。
どちらが良い、なんて言えない。それぞれに異なる魅力があるような気がするのだ。すべてを自分で決断しなければならない、一人旅の潔さも相変わらず好きだ。
今年は、その時を楽しみたいと思う。
 搭乗口に続く通路を歩きながら、まず向かおうとしているバンクーバー島に住む友人たちの顔を思い浮かべていた。太平洋側の玄関口バンクーバーからフェリーで2時間ほど海を渡った先にある島である。2年前マッケンジー川の旅を終えたあと、帰国までの時間をしばらく過ごした場所だった。
思い出すだけで、心の中が温かくなるような人達との再会に、幸せを感じていた。
 そして、懐かしい再会をスタートに、また新しい土地を旅してみようと思う。
カナダの西海岸で、豊かな雨に育てられた森を歩いてみたい。海の波にゆられてみたい。
 「生きることは『出会うこと』です。それをおそれて一体何がはじまるというのでしょう」
寺山修司のワンフレーズが頭をよぎる。
 予定らしい予定のない夏、でも何かに出会えそうな、そんな予感だけが胸にあふれていた。

↑Top | 投稿者:菊地千恵