2005年01月11日 (火)
冬晴れの日、楢の木の下で
どうにもこうにも、うだつのあがらない日というのがある。
気持ちもやる気も地に落ちて吸い込まれていくようなのだ。
なぜかこんな時だけ、普段は全く見ない自分のバイオリズムなぞをインターネットでチェックしてみる。すると、必ずと言ってよい程、身体、感情、知性とある3本の曲線のどれかがどん底まで落ちている。誕生日から機械的に打ち出されたリズムと自分の状態がなぜか一致している不思議さに、いつも笑ってしまう。
とは言え、低迷した自分のエネルギーを切り替えることはできず、ウダウダしてしまいそうな自分に叫び出しそうになって、私は留守番組のラフカイと連れだって裏山に登ることにした。
何も考えずに、ひたすら山道を歩く。
尾根の少し手前、南斜面に面したところに、根元の部分からちょうど両手一抱えの太さの幹が4本に分かれている楢の木がある。ある時から、この木は私のお気に入りの1本になっていた。
少し火照った体で楢の木まで辿り着いた私は、4本の幹の間にできたお尻一個分の窪みに腰を下ろして、幹にもたれ掛かった。目を瞑ると、何とも言えない安心感が沸いてきた。
急に風が収まり、辺りがシーンと静まりかえる中で、地面に積もった枯葉がカサリコソリと小さな音を立てた。
ジッと耳を澄ませていると、山の連なりの右奥のほうで、轟々と地響きにも似た音が鳴り響いていて、それはどんどん近づいてきた。ついさっき登ってきたばかりの谷間を強い風が通り抜け、私が座る尾根にも風は尻尾をちらりと見せて去って行った。
またしばらくすると、西から風が生まれる音が聞こえてくる。轟々言っているのは、寄り集まった風のエネルギーだった。
お日様の光に照らされながら、ぼんやりしていると、何時か何処かで誰かが語ってくれた言葉が、記憶の引き出しからころりと転がり出て、声を掛けてくれる。それは不思議なほど、今の私に必要な台詞だったりする。
ああ、この感じは体が覚えているなあと思いながら、それをたどっていくと、小学生の頃、大好きで通い詰めた近所のおばさん家の庭の、銀杏の木だった。
あの頃も、いつも気に入った木の枝の上で取り留めもない、でも幸せな時間を過ごしていたような気がする。あれから何年もの時が流れているのに、同じことをしている全然成長していない自分・・・。子供の時期に刷り込んでしまった記憶って本当に恐ろしい。
けれど、太陽と楢の木が、頭とお尻の両端からエネルギーを充電してくれたみたいに、いつの間にか体も心もすっきりしていた。
少し大袈裟に言えば、この楢の木は私にとってのひとつの聖地なのかもしれない。
例え他の誰もが、周囲の樹々を見るのと同じように通り過ぎて行っても、私がその木を好きで大切だと思えば、それでいいのだ。
人はみんなそれぞれに、自分だけの聖地を、どこかの場所に、心のどこかに持っているのかなあと思う。
年が明けてから、近所の炭焼き場に集うおじさん達が「1月17日は山の神様の日」だと教えてくれた。
今年は、日本酒片手に山の神様達にご挨拶しに行ってみようかなあと思い始めている。