真夏のツンドラ地帯を流れるセロン川。水はどこまでも澄み、カヌーはまるで宙に浮かんでいるよう。カリブー、グリズリー、マスコックス・・・そしてアークティック・ウルフが自在に原野を駆け回る、そんな野生の聖地を流れる川を、ひと夏かけて旅しました。
文  田中勝之
写真 田中勝之、多胡光純、菊地千恵

6月の終わり、いよいよ待ちに待ったセロン川への出発。チャーター便で上流地点に入ってからは、約1000キロの間、村もなく食糧補給ができないため、出発地であるイエローナイフで約2ヶ月分の食料の買い出しです。
バノック(インディアンの鍋焼きパン)のための小麦粉や、米、マカロニ、それに調味料などの主食だけを持ち、それ以外は川で釣れるレークトラウトやアークティックグレイリングなどの魚に頼ることにしました。
僕らの愛犬ラフカイは、今回は残念なことにセロン川への旅に連れていくことができませんでした。北極オオカミやグリズリーなどの野生動物が数多く棲息するこの地域へ犬を連れていくのは、犬にとって危険でもあり、また動物保護の観点からも適切でないということで、泣く泣くラフカイを友人夫婦のところに預けていくことになりました。
イエローナイフでラフカイと別れ、僕ら人間3人だけでカヌーを背負いセロン川へと向かったのです。
折り畳み式カヌー(ノルウェー製のAlly)とキャンプ道具、衣類、膨大な食料を積み込み、チャーター便でいよいよツンドラ地帯へ!イエローナイフから約1時間半東に飛ぶと、もうそこは大小の湖沼が無数に広がるツンドラの大地です。
川下りのスタート地点はセロン川の最上流部であるホワイトフィッシュ湖の北岸。折り畳みカヌーを組み立て、18.5フィートの大きなカヌーに荷物をいっぱいに詰め込んでツンドラと野生動物の世界へとこぎ出したのは、もう7月のはじめでした。
僕らは白夜のツンドラのただ中にいました。360度地平線に囲まれた世界。丸い地球のてっぺんで暮れることのない夜を見つめ続けていました。真夜中でさえ夕暮れ時のよう。あまりに美しい風景に眠るのが惜しく、朝陽が昇るまで大地に横たわり空を眺めていました。ツンドラ平原にできた水溜まりのような澄んだ湖の湖上からは、夏の繁殖のために数千キロ南かわ渡ってきたルーンの番が静寂の中、ときおり美しい歌声を響かせていました。
 時計の歯車がカチカチと鳴る音が、だんだんと遅くなり、いつしか無限の時の流れの中にいるような感覚に落ちていきました。今日が何月何日なのか、何曜日なのかさえ忘れて。
夕方、1日の川下りを終えると、セロン川のクリアーウォーターにルアーを投げ夕食用に魚釣りをします。
魚の多いポイントを見つければ、1投で1匹、巨大なトラウトが釣れます。釣れたトラウトはそのままアルミホイルにくるんで焚き火で焼いたり、スープにしたり。数十匹を釣った日には、極北インディアンのやり方でティピーを立て、その下で小さな焚き火をし、開いた魚を保存食用にスモークします。旅の後半、この保存食が僕らを救ってくれました。
ラフカイの故郷であるマッケンジー川で、これまでいくつもの夏を過ごしました。インディアンのフィッシュキャンプ(冬用の保存食を作るための夏のキャンプ)で、おばあさんに習ったとおりに魚を開き、スプルースの煙でいぶし天日で干し、ドライフィッシュという乾物を作りました。いずれも80センチを越える大きなトラウトばかり。旅の前半にフィッシュキャンプを設置し、1週間ほどで50匹以上のトラウトをドライフィッシュにしました。
フィッシュキャンプの近くでグリズリーベアーの足跡を見つけたときには、ひやっとしたものです。
ある朝、スモーク用ティピーの裏に張ったテントから起き出すと、テントから5メートルも離れていないところまで、まだ若い真っ白な北極オオカミが近づいてきていました。
バニックと魚が僕らの常食です。ときどきスパイスをきかせた魚のシチューを作ったり、持ち合わせの食材で試行錯誤しながら、毎日の食事を楽しみました。
非常に長い背鰭が特徴のアークティックグレイリングはスープにすればたっぷり出汁が出て、フライにしてもとても美味しく、後半はこの魚ばかりを食べていました。
ふと考えてみると、この川はなんと豊かなことでしょう。僕ら3人の食料を、ほぼ毎日、間違いなく提供してくれたのですから。
そして、夏の盛りが過ぎると、ツンドラの大地には、地面を埋め尽くすほどのベリーが実りました。
紫の小さな粒を大鍋いっぱいに集めては、甘酸っぱいブルーベリージャムを作り、毎食たっぷり食べます。川からの恵みと、大地の恵みによって僕たちは生かされているんだということを、身をもって感じました。
カナダ北東部をハドソン湾に向かい流れるセロン川の旅は、雨続きの道中でした。風を遮る森のないツンドラは雨とともに冷たい強風を運んできます。
 4日間嵐が続き小さなテントの中で堪え忍んだある日の夕方、北の空の端に線のように晴れた空がのぞきました。夕陽でピンクに染まった、その空は、嵐で落ち込んだ僕らの気持ちを、再び勇気づけてくれました。大自然の真ん中にいると、そんなささいな天気の変化さえ、とても大切で大きなできごとなのです。
 久しぶりに釣りをし、大きなアークティックグレイリングを10匹近くつり上げ、焚き火で夕食を作りました。
 やがて晴れ渡った夜空には、星が輝きはじめました。もう8月の終わりに近づくと空も半分、闇に包まれていきます。再びオーロラの季節がやってきます。
In the middle of nowhere... 果てしない原野のただ中で・・・駆け足で過ぎゆく夏とともに、ツンドラの風に揺られてカリブーの群に見つめられながら僕らのカヌーはセロン川を流れていきます。
この先1000キロ、セロン川は人間の存在しないツンドラを蕩々と流れていきます。あの地平線の向こうまでいっても、またその先に誰もいない地平線が続いています。
旅を終え、帰路のセスナのチャーター便を呼ぶために、イリジウム衛星携帯電話でイエローナイフに電話をしました。受話器からは、懐かしい町の喧噪が流れ込んでくるようでした。雄大なツンドラの風景に、後ろ足を惹かれながら、僕らは小さなセスナ機で夏の終わりのセロンをあとにしたのでした。